第10回被爆75周年企画展「残したいあの日の記憶―執筆補助体験記より―」

原爆投下後の長崎で死体を運搬

【証言者】松尾(まつお) 昌幸(まさゆき)さん(89歳)

 爆心地から北西に約30キロ、現在の長崎市下黒崎町(しもくろさきまち)で生まれ育った松尾昌幸さん。長崎に原爆が投下された時は15歳だった。黒崎地区は直接の被害はなかったが、松尾さんは「空がピカッと光り爆音がした」と言う。翌日には警防団として長崎へ応援に行くことに。がれきの中から死体を運び出す作業に追われる。

太平洋戦争が始まった頃の生活

 私は昭和4年11月10日に今の長崎市下黒崎町(被爆当時は西彼杵郡(にしそのぎぐん)黒崎村(くろさきむら))で生まれ育ちました。父の名は繁一(しげいち)、母はオモといいます。6人兄弟の長男でした。大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった昭和16年12月8日は、国民学校の6年生でした。戦争が始まってからは学校で勉強するということはなかったです。畑の仕事などをしていました。収穫した米は兵隊さんのために供出しなければいけませんでした。また何に使うのか分かりませんでしたが、桑やシュロの皮を剥いだものも兵隊さんが使うというので供出しました。この辺りの人たちは、疎開することはありませんでした。
 父は出征する前は仕事で上海に行っていました。カワナミサルベージという会社で、沈んだ輸送船を引き上げる仕事をしていました。父は当時50歳くらいだったと思います。父が上海にいる時に召集令状が届き、父はそのまま黒崎の家には戻らずに上海から相浦(あいのうら)海兵団に入隊しました。
 若い大人は戦争に行っていませんでしたから、黒崎のお年寄りの人たちはアメリカ兵が上陸したときに備え、竹を削いで武器にし、いざとなったら刺し殺すと準備していました。
 戦時中、黒崎は畑があったので食べ物はありました。芋、麦は不自由しなかったです。長崎から買いに来ている人もいました。
 この辺りの空襲はそれほどひどくありませんでした。それでもB29の姿は見かけました。間違えて落としたのか、何もない近くの山に爆弾が落ちました。私は役場から片付けに行くように言われ、爆弾の破片や鉄板などを運びだしたことがあります。
 またある時、出征が決まった兵隊さんが黒崎から船に乗り出航したところに、船を目掛けてB29からの空襲がありケガ人がでました。小舟で沖まで助けに行きましたが、戦地に行く前に亡くなってしまう兵隊さんもいました。

昭和20年8月9日、原爆投下の日と死体運搬作業

 昭和20年8月9日原爆投下の当日、私は役場にいました。空襲警報が解除になり、家に帰ったところで空がピカッと光って、そのあとドンドンと大きな音がしました。音はひどかったです。黒崎の辺りは長崎から離れているので爆風などはありませんでした。
 長崎に爆弾が落とされたことを知り、翌日の夕方に黒崎の警防団員が20から30名ほどでしょうか、集められて長崎に応援に行くことになりました。私は警防団員の最年少で15歳でした。若い大人は戦争に行っていなかったので、そのほかの警防団員は年配者ばかりでした。
 黒崎から小舟で沖に出て、監視船に乗り替え長崎に向かいました。(かぎ)の付いた(とび)(ぐち)という道具と担架を持って行きました。船は長崎の大波止(おおはと)に着きました。長崎はまだ煙が燻っていました。何の匂いか分かりませんでしたが、すごい匂いがしたのを覚えています。恐ろしくて気持ち悪いと思いました。
 防空壕で一夜を過ごし、夜が明けてからトラックに乗せられて城山(しろやま)へ向かいました。生きた人はほとんどいませんでした。牛や馬は腹が膨れてひっくり返っていました。田んぼの中も人が死んでいました。大橋の川の中では赤ちゃんが産まれそうな状態で亡くなっている妊婦らしき人を見ました。
 途中、負傷した人に「水を飲ませてくれろ。」と言われましたが、大人に「飲ませるな。」と言われました。かわいそうで飲ませてあげたかったのですが、飲ませる水もありませんでした。
 私たちの分団は死体を担架に乗せて焼き場まで運ぶ作業をしました。倒壊した家々から死体を出して運びました。亡くなった人をつぎつぎに担架にのせて運びますが、誰が誰か分からない、名前も何も分かりません。
 途中B29が偵察の為か飛行しているのを見たときは、トタンやがれきの下にもぐり隠れました。また爆弾を落とされるのではないかと話していました。
 死体を運び出す作業は大変でした。死体の腕を引っ張ると、皮膚がツルっとはがれてしまいます。始めのうちは恐ろしくてなかなか作業ができませんでしたが、だんだんと慣れていきました。しかし匂いは臭いったらあったものでない、ものすごい匂いでした。
 夜は()樋の口(びのくち)の防空壕でがれきの板などを敷いて寝ました。二日目は竹ノ久保、今の春木(はるき)(まち)あたりでしょうか、死体を運びに行きました。二日目はもう、怖いということはなく、黙々と作業しました。諫早(いさはや)から炊き出しの握り飯が届けられましたが、8月の暑さで腐っていました。しかし仕方なくそれを食べました。
 井戸の中もたくさんの人が亡くなっていました。一番若い私が腰にロープをつけ井戸に入り、死体をロープで縛り引き上げました。井戸の中に何度も入り作業しました。井戸の中にも生きた人は一人もいませんでした。
 私たちの分団は2日間作業をしました。行きは船で長崎まで行きましたが、帰りは一日かけて歩いて黒崎まで帰りました。私たちの黒崎分団のほか、近くの分団も長崎に応援に行ったようですが、よその分団は一日で作業を終え帰ったようです。
 家に帰ると母が私の着ていた服をすべて燃やしました。臭いってものでない、ものすごい匂いがついていたのだと思います。
 原爆投下後の死体運搬をした経験から、扱いに慣れているということで、地元の浜に打ち上げられた首のなかった兵隊の死体を焼いて骨にしたことがあります。その兵隊さんは魚雷でやられたのだと思います。軍服を着ていたので身元が分かりました。当時だいぶ多くの死体が浜に流されてきていました。
 長崎での作業の後は、定期的に近くの病院で予防の為と注射を打ってもらっていました。同じ警防団で長崎まで作業に行った人の中には、早くに亡くなった方もいます。妻の親戚も、原爆投下後の長崎に親戚を探しに行き、その後すぐに亡くなりました。長崎に応援に行った警防団では、私が一番若かったので、一緒に行った警防団の人たちは今ではすべて亡くなっています。

火葬場について

 2日間で、何百という死体を担架に乗せて焼き場まで運びましたが、今になってもそこがどこだったのか分かりません。原爆の語り部をされていた池田(いけだ)早苗(さなえ)さんも、亡くなった弟さんを焼き場まで負ぶって連れて行ったそうです。戦後、池田さんと「あの時の川の近く広い所、焼き場は一体どこだったのか。」という話をしたこともありますが、結局分かりませんでした。
 焼き場では、死体を男か女かにだけ分けます。生まれたばかりの赤ちゃんも年寄りも男か女というだけで分けられます。集められた死体は別の人たちが火葬しました。焼いていたのは市役所の人たちではないでしょうか。自分たちは、死んだ人だけを運搬しました。
 遺骨は後日、遺族が市役所まで取りに行くのですが、男だったらこちらの遺骨の山から、女だったらこちらから遺骨を取るというように、性別だけで分けられ、誰のものかわからなくなった遺骨を持って帰ります。私も親戚が原爆で亡くなったので歩いて長崎まで行き、県庁や市役所を行ったり来たりして遺骨を取りに行きました。

終戦後

 終戦後、この辺りは畑があるので食べ物に不自由しませんでしたが、長崎から滑石(なめし)峠を越えて食べ物を買いに来る人もいました。中には赤ちゃんを背負って来る女性の姿もありました。やっとのことで手に入れた食料を警察か誰かに没収されている人もいました。そういうことが当時は罪になってしまうんですね。没収された食べ物はどうなったのでしょうか。
 戦後は靴が無く草履や下駄を履いていました。下駄の鼻緒もわらでした。道も舗装してなかったので草履の中に石が入ってしまい、片方は裸足になってしまうこともありました。何年か後、靴が配給になりましたが、全員分は無かったので抽選でした。
 戦争が終わっても勉強はできなかったです。広い畑を持っている人の所に芋や麦を作るのを手伝いに行っていました。
 大人になってからは鉄工所に行ったり、建設作業員などの仕事をしていました。松島建設や炭鉱のあった池島などにも働きに行きました。昭和30年に妻と結婚し、黒崎でずっと暮らしています。
 以前、肺がんの手術をしたことがあります。今は半年に一回原爆病院に診察に行っています。私の場合、原爆投下直後は具合が悪くなるということはありませんでした。かわいそうなことに、原爆が落とされた直後に長崎に行った人が、そのことを証明することができず、被爆者手帳がもらえないまま病気で亡くなっていました。

若い人たちへ

 二度と戦争はいけません。戦争は終わった後も食べ物や物がないなど不自由します。お互い人間だから仲良くしないといけない。どこの国の人、どこの人と差別はせずに、それが一番良いと思います。

〈2019(令和1)年10月8日 長崎市下黒崎町のご自宅にて収録〉

「上空から見た城山国民学校一帯」
撮影:米軍 所蔵:長崎原爆資料館

生きていてよかった

【証言者】浦川(うらかわ) 大次郎(だいじろう)さん(86歳)

 長崎市片淵(かたふち)(まち)で生まれ育った浦川大次郎さん。被爆時は(かみ)長崎(ながさき)国民学校の6年生で、学徒動員で西山(にしやま)に登っていた時に被爆しました。同級生とやっとの思いでたどり着いた水源池で目にしたのは、生きているか死んでいるかも分からない人たちが道を埋め尽くす、地獄のような光景でした。家族や友人、そして自分自身の人生に、大きく影響を与えた戦争と原爆について話しました。

被爆前のこと

 昭和8年6月10日生まれ、生まれも育ちも長崎市片淵町です。当時は父と母と祖母と姉3人と私の7人暮らし。兄は兵隊に行っていました。未熟児で生まれた私は、国民学校3年生頃まではひょろひょろで、背の順で並ぶといつも1番前でした。
 うちは先祖代々400年、農業をしています。そのため戦時中でも食べるものがありました。クラスの半分の人は食べ物が足りていませんでした。国民学校の先生もうちに食べ物をもらいに来ていました。そのせいか、私が級長に選ばれたんです。
 学校では竹やりの訓練をしていました。竹の先をそいで、火であぶって、先をちょっと焦がしたものを持って、人形にみんなでやーって向かっていくんです。こんな竹やりが役に立つものかと思っていましたが、指導員は軍人で、強制的で、しないわけにはいきませんでした。同じように、木で作った格好だけの高射砲で飛行機を狙う練習もしていました。
 原子爆弾の前にもB29が飛んできて焼夷弾を落としていきました。市街地へ落とすのを、間違って彦山から峰火山へ落としました。もし市街地に落ちていたら大火事になっていただろうと思います。焼夷弾には真っすぐに落ちるように5メートルほどのリボンが付けられていました。そのリボンがきれいで、私たちはリボンを取りに峰火山へ行ったこともありますが、山の木にからみついて地上へはあまり落ちていませんでした。
 学徒動員では、松脂を採るために西山へ登っていました。学校には男子組、男女組、女子組と、3クラスあり、私は男子組。男子組が松脂採りに行っていました。西山は大きな松の木が並ぶ松林でした。その松の木に傷を付けて、たらたら落ちる松脂を貯めて、それをバケツに移して学校へ持って帰っていました。松脂は飛行機の燃料に使うと聞いていましたが、実際には何に使っていたのかは分かりません。西山へは朝から弁当を持って行き、夕方まで。重労働ではありませんでしたが、松林まで登って行くのに半時間ほどかかっていたと思います。

被爆の日のこと

 8月9日も学徒動員で西山へ行きました。軍隊が移動するための幅3メートルほどの細い軍用道路があり、西山にはそこを通って行っていました。軍用道路は市民が動員されて作ったもので、全て手作業だったので大変だったと思います。
 原爆投下時、原子爆弾が飛行機から県庁の上を狙って落とされ、風で浦上へと流されるのを西山からずっと見ていました。落下傘の下に丸いものがぶら下がって、ふわふわふわふわと。「なんやろか、なんやろか」と言って見ていました。その後、落下傘は山の中に入って行って爆発しました。落ちた時、音は何もせず、ただそっと落ちただけ。すると突然、台風以上の爆風がうわっと来て、次の瞬間、カーっと光って、もう目が開けられませんでした。当時、あの一帯の家はほとんどが藁ぶき屋根。ぴかっと光った瞬間に屋根に火が付き、全部が火事です。私たちが見たのは、何十軒と家が燃えている光景でした。それでもう、弁当も道具も山に捨てて、どんどん軍用道路を矢上(やがみ)の方に逃げました。山の中を行ったり来たりしているうちに空が真っ黒になり、太陽が真っ赤になりました。すると雨が降ってきました。油の雨です。着ていた夏用の真っ白いシャツが真っ黒になりました。3時か4時だったと思います。太陽が真っ赤で、きのこ雲が空を覆うように広がっていました。
 山の中を何時間さまよって逃げ回ったでしょう。もう、あっちに行きこっちに行き。クラスのみんな2、30人でまとまって移動しました。西山町(にしやままち)4丁目まで行くと、本原(もとはら)からの道を被爆した人がぞろぞろぞろぞろ、水源池の裏の所まで道いっぱいに歩いていました。熱で髪の毛が焼けてしまって、男か女かも区別がつきません。水源池の所まで下ってきたら、安心したのでしょうか、2、3メートルしかない狭い道路にみんな座り込んでいました。ひどい人は水源池の水の中に頭を突っ込んで水を飲んでいました。そこで死んだ人も相当いました。10人、20人ではありません。水際にずらーっと、誰かが並べたようでした。道端に座っている人もいれば、寝ている人もいる。生きているのか死んでいるのか私の目では判断が付きません。もうぎっしりで、人を越えて歩かないと前へは進めませんでした。
 ちょうどその時、担任の先生が水源池まで来ていました。先生は原爆が落ちた時、溝の中に伏せたらしく泥まみれになっていました。「先生どうしたとですか」と聞いたら、「溝ん中に伏せたと」と。だから「水源池で泳がんですか」って言いました。水源池の周りには、死んでいるのか生きているのか分からないような多くの人が、顔を水の中に突っ込んでいましたが、先生はそこに入って行って泥まみれの服を洗濯しました。
 父は、原爆が落ちた時、畑にいて畝の中に伏せたそうです。それで全くの無傷でした。母は家にいたそうです。姉は当時市立女学校に行っていました。そこから動員で(さいわい)(まち)の三菱兵器工場に行っていたところ、その日は帰れと言われたそうで、近くでの被爆をまぬがれていました。父は、姉は死んだだろうと肩を落とし家へ帰って来たら、玄関の下駄箱に姉の弁当が置いてあるのを見つけてほっとしたと話していました。私が家に着いたのは夕方遅くでした。私がいつまでも帰ってこないものだから父は心配して、家の近くの長崎大学経済学部の所に立っていました。
 現在、家の近くにある公民館の下は、鳴滝(なるたき)まで水道をひいた水道トンネルだったのです。岩を切り抜いただけの、何もしていないガラガラのそのトンネルを、私たちは防空壕にしていました。原爆で家はめちゃくちゃになったので、家から木の戸を外して持ち寄り、父がトンネルの中にその戸板を並べて、そこに寝るようにしました。はじめは私たちの隣組だけで使うことになっていましたが、知らない人も逃げて来ました。次から次に「入れてくれ」と。断るわけにもいかず、トンネルの中は人だらけになりました。数えたことはありませんでしたが、かなりの人がいたと思います。1週間ぐらい過ぎたころ、けがをした人の足や手の傷口にウジがわきました。生きている人間の傷口にウジがわいて、動いているんです。医者がいないので、父が家にあった赤チン(ヨードチンキ)で消毒していました。その人たちも、そのうちにどこかへ行ってしまいました。帰ったのか、死んでしまったのか分かりません。結局、トンネルにはひと月もいませんでした。爆風でゆがんでしまった家は、大工に頼んで、万力でゆがみを直し、瓦もきれいにしました。作業には2、3か月かかったと思います。その間は、ゆがんだままの家で暮らしていました。

救護救援復旧活動

 経済学部の運動場に、軍の命令で壊された家々の材木を持ってきては積み上げ、火をつけていました。その上に、大八車いっぱいに積んできた死体をぼんぼんと放り投げていました。それが何日続いたか覚えていません。原爆が落ちてすぐから、毎日続きました。運んで来ては燃やして。それがひと所じゃなく、あっちもこっちもです。続けて燃やすことはできないらしく、次はここ、今度はここ、と場所を変えていきました。材木を持ってくる人は材木を持ってくる。死体を持ってくる人は死体を持ってくる。そして火をつけて。いっぺんに10人でも20人でも、どんどんどんどん燃やしていました。大人も子どももないです。燃やした後、骨をどうしたのかも分かりません。私たちはまだ6年生でしたから、それを手伝うこともなく、ただ見ているだけでした。大八車から死体の手が出たり足が出たりするのを見ても、何とも感じなかったですね。毎日、死体の上を歩いて回っていたので、感覚が麻痺していたのでしょうね。

終戦後のこと

 あれが原爆だったと知ったのは何日か経った後のことでした。ラジオで言っているのを聞いたと思います。ラジオも各家にはなかったので、近所の人が集まって聞いていました。終戦を知ったのもラジオでした。ちょうど昼頃のことでした。なんと言うか、別に感激もしないし、泣いたりする人もいませんでした。みんなが少しいろんなことに鈍感になっていたんですよ。
 戦後すぐ、片淵町に進駐軍が来ました。片淵町には駐留軍の宿舎があり、外国人が2、300人いました。私にはフィリピンで生まれて引き揚げてきた友人がいて、彼は英語を話すことができました。私たちは一緒に毎日のように宿舎に遊びに行っていました。そして、ご飯を食べさせてもらっていました。おいしかったですよ。カレーなどの軍隊食はほとんどが缶詰。食器は茶碗ではなくアルミ製。みんなが「ぼっちゃん、ぼっちゃん」と可愛いがってくれました。チョコレートやタバコなどあれこれポケットにいっぱいもらって帰って来ていました。もらった物は人にあげていました。すると父が、「アメリカ人は好かん。そげんとばもろうてくんな(そんなものはもらってくるな)」と怒っていました。父はアメリカは敵という考えでしたから。
 学校は夏休みの期間中でもありましたし、先生もいなかったので、長く休みました。女の先生ばかりで男の先生はいなかったんです。その後、今の済生会病院の所に長崎商業学校が作られ、私はすぐに試験で入りました。1年ほどそこで勉強してから西郷(にしごう)(現在の油木(あぶらぎ)(まち))の学校に行きました。その頃は電車が浦上駅前までしか行かなかったので、浦上駅から西郷まで歩かなければならず、遠かったです。学校は鉄筋でしたが、ガラスも全部割れて枠だけが残っていました。冬は、ガラスの代わりに紙を貼って寒さをしのぎました。学校に炭屋の息子がいて、かばんに炭をぎっしり詰めて持って来ていました。その炭で火を起こして、火にあたりながら勉強をしました。床も燃えてしまっていてセメントがむき出しだったので、火を起こしても全く問題なし。だから先生も何も言いませんでした。
 私は意外と苦労をせずに育ったように思います。友達の中には中学校までは行ったものの高校へは通えないという人がかなりいました。中学を卒業してからすぐに働く人は珍しくなく、クラスの半分くらいはいました。生活のために稼がなければならず、頭の良し悪しは関係ありません。私の友達の家は家系図が2メートルもあるような、長崎奉行所の家老の子孫でしたが、「高校には行けない」と中学までで働き始めました。いくら昔偉くても、戦争になったら何もないんです。食べるのに一生懸命なんです。
 仕事は、農業が儲かりました。私は20歳の頃、父の畑を継ぎました。父は野菜専門だったので、カボチャや大根など80キロも90キロも担いで背中の骨が曲がっていました。私は体が小さいので、これはよくないなと思い「花に切り替える」と父に言ったところ、「好きなようにしろ」と。その頃、県の改良普及所というのが銭座町にできて、そこには野菜専門、花専門の技術員がいました。花専門の技術員から習いハウスを作りました。1番多い時には24、5棟作り、新大工町にあった花市場にどんどん出荷しました。

戦後の食糧事情

 大村に朝鮮人村というのがありました。そこから「担ぎ屋さん」と呼ばれていた女の人が、氷嚢(ひょうのう)にお酒を入れて、5つも6つも背中に背負い売りに来ていました。父は酒飲みで、終戦すぐから酒を飲んでいました。酒も配給でしたから買えないはずですが、家には一升瓶が5本も6本もありました。そのことは警察も知っていて、家の近くの交番の巡査が、父が酒を飲んでいる時間をめがけて来ていました。「飲ませなかったら捕まえるぞ」と言わんばかりです。
 うちは百姓だったので食べることには不自由しませんでした。戦時中でもおせちを作っていましたから。畑には町の人がカボチャなどを買いに来ていました。父は「イモのつるなんかは、勝手に持って行きなさい」と言っていました。野菜は何より大きい方が良いということで、カボチャなどをどんどん市場に出していました。たくさん野菜を持っていくと反物をもらってきていました。着物があまりなかったので、お礼の意味があったのでしょう。

次世代の人に伝えたいこと

 同じ場所で被爆した友人のうち3人が働き盛りの30代に白血病で亡くなりました。そのうち一人は大学を出て商社へ入り、ドイツへ赴任。その後白血病を患い帰国してから亡くなりました。私自身が体に被爆の影響を感じたことは全くありません。
 今、被爆していない人が語り部になっていると話を聞きました。被爆者が語り部をできるといいですね。私は今86歳ですが、この分だったら100歳まで生きることができそうです。できることなら私も語り部として活動をしてみたいと思っています。

〈2019(令和1)年10月8日 長崎市片淵のご自宅にて収録〉

いかなる理由があっても戦争はだめだ
核兵器もだめだ

【証言者】友清(ともきよ) 史郎(しろう)さん(93歳)

 長崎医科大学物理療法科(現在の放射線科)の技術雇だった友清史郎さんは、長崎医科大学附属医院の室内で被爆した。上司は当時助教授だった永井(ながい)(たかし)博士。
 被爆直後、永井博士とともに長崎医科大学第十一医療隊(物理的療法科斑 隊長 永井隆)として、負傷者の救護活動に従事した。そのようすは永井隆著『長崎の鐘』中にしばしば紹介されている。原爆では父(友清春雄さん)と多くの同僚・仲間を亡くした。
 友清さんは今年初めて平和祈念式典に参列している。

被爆以前

 私は長崎(ながさき)県立(けんりつ)瓊浦(けいほ)中学校を卒業し、長崎医科大学付属医院の物理的療法科に技術雇として勤務しました。当時の上司は永井隆助教授でした。病院に勤務していたときは、多忙で、患者さんのお風呂に入ったり、患者さんのベッドで寝たりしたこともありました。
 昭和20年当時、私は父の友清春雄が借りてくれた長崎市(ながさきし)城山町(しろやままち)の市営住宅に住んでいました。父は西彼杵郡(にしそのぎぐん)大瀬戸町(おおせとちょう)松島村(まつしまむら)で信用組合の組合長や村会議員をしていました。その頃、父はよく米を持って私のところへ来ていました。父はお酒が好きで、よく晩酌をしていました。父と永井先生とは飲み仲間でした。お酒持参で永井隆先生にところへ行っては、よくお酒を飲んでいました。永井先生も酒好きでした。そういうこともあって永井先生は私をかわいがってくれました。私も父の命令で酒をさげて永井先生のところへ持って行ったこともありました。

昭和20年8月9日

 昭和20年8月9日の朝、病院へ出勤する途中、大瀬戸町の松島村から米を持って来た父と稲佐橋(いなさばし)付近でばったり会いました。父は「米を持って来たから、下宿に行っているから」と言いました。父とはそこで別れました。

 10時50分頃、永井先生から「史郎ちゃん、昼飯には早いけど、中に入ろう、めし食おう」と誘われて、私は病院の中に入りました。
   原爆が落ちたときは、同じ技術雇の()(けい)(せい)さんと一緒に透視室にいました。B-29の原爆を投下した直後に急上昇するエンジン音だったと思いますが、至近弾が落ちたかと思えるくらいのものすごい音がしました。それと当時に黄橙色の閃光が走り、身体を持ち上げられるようなものすごい爆風が吹き、あたりは真っ暗になりました。いきなり天井が落ちてきましたので、すぐに卓球台くらいある大きな机の下に入りました。施さんとは「生き埋めになったかな」と話しました。しばらくして体が濡れているのを感じ、施さんに「体が濡れている」と言いました。施さんが「熱いか冷たいか?」と聞いたので「冷たい」と答えました。私はひっくり返ったバケツの水を浴びていたのでしょう。
 しばらくして気をとりなおし、永井先生を捜しに施さんと一緒に階上の撮影室に行きますと、本棚の下敷きになって出血しておられましたが、永井先生は何とか元気でした。永井先生に「友清君、角尾(つのお)学長が外来の診察をしていると思うので行ってくれ」と言われ、その室に行きますと、学生とともに角尾(すすむ)学長が倒れておられました。学長はあちこちを負傷していましたので、私の三角巾で肋骨部と右大腿部(骨折でした)をしばり、永井先生の指示で、学長を背負い病院の裏山の穴弘法(あなこうぼう)下の丘までお連れし、学長を寝かせました。

 病院の建物から出て眼下の街を見たら家も何も潰れてなくなっていました。びっくりしました。こんな爆弾があるのかと思いました。しばらく経ってからみんなが「原爆だ、原爆だ」といい出したので、これが原爆というものかと思いました。よく自分が生きていたなとも思いました。

負傷者の救護活動に加わる

 病院裏の穴弘法下の丘や畑で私は患者や負傷者の救護をしました。永井先生も穴弘法下の畑にいました。耳辺りをひどくけがをして血が出ていて、永井先生は包帯を巻いていました。

 建物の外にいて負傷した人達が病院の中にたくさん集まって来ました。みな「助けてくれ」と言っていました。その人達を「みんな裏の畑におりますけん、そっちに行ってください」と誘導しました。裏の畑へ患者さんや負傷者の手を引いて連れて上げました。そのとき自分の顔や手足に少しけがをしていることに気づきました。それ以上の救護活動はできなかったですね。病院にたくさんの人が集まって来ていて「助けてくれ」と言われましたが、全員は助けようがなかったです。

 穴弘法下の丘に角尾学長をお連れしたあと、空から黒い雨が降ってきました。その黒い雨を鉄カブトで受けとめて、近くに倒れている「水をください」という人に飲ませてあげました。当時はそれが恐ろしい雨だと思わなかったのです。今考えれば(飲ませたのは)まずいと思います。幸い自分達は誰も口にしませんでしたが、あとで恐ろしい雨だったと聞き、肝を冷やしました。
 その夜は食べ物がなかったのですが、山から流れている小川の水を汲み、畑にカボチャがごろごろありましたので、鉄カブトで茹でて食べました。カボチャを負傷者にも食べさせた覚えがあります。ひもじかったのでみんな喜んで食べていました。

8月10日以降

 病院の敷地内には、たくさんの死体がありました。永井先生の指揮で、木を集めてきて遺体を焼きました。私と施景星さん、久松(ひさまつ)婦長さん、()(くん)(ざん)さん(副手補)もいました。重いものを持つ仕事は若い私と施景星さんが担当しました。
 被爆翌日は原子野を移動し、医科大学グラウンド横の薬専の防空壕に一泊しました。
 被爆の3日後、医療隊は永井先生を手伝って、三ツ山(みつやま)木場(こば)(ふじ)()まで移動し長崎医科大学第十一医療隊(物理的療法科斑 隊長永井隆)三山救護斑として救護活動を続けました。浦上天主堂から今の川平(かわひら)バイパス付近を通って、三ツ山まで移動しました。そのときの食料は元気な人が市役所へ行き配給の乾パンなどをもらって来たり、その辺りにあるものを食べたりして、お腹を満たしました。
 第十一医療隊は2ヵ月近く三ツ山にいました。負傷者の家を回ったり、患者さんが集まって来て手当したりしましたが、治療する医療器具や薬品がなかったですね。私は放射線技師なので直接治療に加わることはありませんでしたが、主に力仕事などを手伝いました。県立瓊浦中学を出たばかりで、そんなに救護活動に役に立ったとも思えませんが。

 被爆後、兄が稲佐橋((たけ)久保(くぼ)付近)で爆死した父の遺体を発見しました。見つけた父の遺体はウジ虫がわいていました。兄と私は父の遺体を荼毘に付しました。骨は缶に入れて松島村まで兄と二人で歩いて持って行きました。船は通っていないし、距離がけっこうあったので、半日かかりで大変だったと記憶しています。当時船でも3時間くらいかかっていました。帰郷後、1カ月くらい下痢で悩まされました。心配した母に柿の葉やビワの葉などよく効くというものは何でも煎じて飲まされました。

終戦後

 私は原爆投下前に永井先生に声をかけられ、建物の中に入ったので、命を助けられたと思っていますが、亡くなった人には申し訳ない思いです。戦後、永井先生について行かなければ、放射線関係の仕事をずっとしていかなければと思いました。永井先生が命の恩人という思いもありました。
 戦後すぐから勤務した長崎市民病院で、放射線科の技師長として築き上げたものがあったので、放射線技師の仕事を全うしたかったのです。市民病院、慈恵病院、十善会、桜町クリニック、長崎友愛病院と、私は75歳まで一生懸命働きました。後年足が悪くなりましたが、妻(比島美(ひとみ)さん)の毎日の送り迎えがありましたので、仕事を続けられたと思います。妻には感謝しています。今生きているのもそうです。妻がいなかったら今生きてはいないです。長崎友愛病院を退職するとき「退職金の半分は奥様のものですね」と院長先生にも言われました。

 戦後、私は永井隆先生を顕彰する長崎如己(にょこ)の会の監事をしました。また、県立瓊浦中学時代に蹴球(しゅうきゅう)(サッカー)をしていたので、55歳まで少年サッカーの指導を熱心にしました。
 体調面では、黄疸、椎間板ヘルニア、心臓、肺がんの疑い、膀胱がん、大腸がんなどを患い大変でした。国に様々な病気をしたことを記した手紙を送ったこともあります。

 私の人生は今まで自分のために生きてきました。これからの人生は永井先生のために生きていきたいと思います。自分が一番身近にいましたから。それで、歩けるうちにと妻の勧めもあり、「永井先生、ありがとう」との思いを込めて、今年初めて平和祈念式典に参列しました。永井先生の墓も参りたいと思っています。

若い世代に伝え残したいこと

 戦争は絶対にだめだ。嫌だ。いかなる理由があってもだめだ。核兵器もだめ。戦争はないのが一番いいこと。今はどこの国も核兵器を持っているのでしょうがないところもあるが、戦争で亡くなっていった人々のために、若い君らに考えてほしい。みんなで考えてみようじゃないか。原爆は二度とあってはいけないということを。
 原爆でたくさんの家族(父)や仲間が亡くなったことは辛かった。今までお世話になった人など亡くなった人達に、自分ひとりが生きているような状態で、申し訳ない。永井先生が言ってくれたたった一言が自分には「神の助け」だった。永井先生のことなど、これから先は自分が知っていることを伝えていきたい。

〈2019(令和元)年10月30日 長崎市小菅町のご自宅にて収録〉

【参考資料】
 『長崎の鐘』(永井隆著)
 『原子爆弾救護報告書』(永井隆)
 『長崎偉人伝 永井隆』(小川内清孝著)

 〈永井隆博士と救護活動を経験 友清さん「先生、ありがとう」〉
 (2019年8月10日付 長崎新聞記事)

 「永井隆先生と共に」— 第十一医療隊救護班の一員として — (証言者)施景星
 「長崎医科大学原爆被災復興日誌」(調来助)

 『長崎医科大学原爆記録集 第一巻』
 (P500:金子マツ子氏の手記 P502:久松シソノ氏の手記)

ボーイフレンドとの悲しい別れ

【証言者】(げん)(じょう) 房枝(ふさえ)さん(95歳)

 源城房枝さんは現在長崎市下西山町(しもにしやままち)在住の95歳。原爆が投下された日は長崎市()(かす)(まち)の家(小店)に母と弟3人といっしょにいて被爆した。家は階段などが壊れた。
 結核の母や弟達を連れて、当時付き合っていたボーイフレンドの()(ひら)(まち)の家に避難したが、彼は亡くなっていた。その後、()()トンネルから諫早(いさはや)方面に歩いて避難し、民家に一泊させてもらい、翌日諫早駅まで歩いて汽車で炉粕町の家に戻った。原爆が投下された昭和20年8月9日はボーイフレンドと映画を観る約束をした日だったが叶わなかった。

被爆以前のこと

 私は大正12年に長崎市炉粕町に生まれました。場所は諏訪神社の三つ目の鳥居の際でした。家には両親(父:源城鉄之(てつの)(すけ) 母:源城シズエ)と私と弟3人(士郎(しろう)、双子の弘一(こういち)(しゅう)(いち))が住んでいました。士郎は三菱の養成学校の事務系の仕事をしており、双子の弟は養成学校に通っていました。母は後妻でした。
 昭和20年は、諏訪神社がにぎやかだった頃で、絵はがきやお土産物やおもちゃなどを扱う小店を出していました。父は同年の1月に肺がんで亡くなりました(享年71)。同年の8月は、母が結核で痩せ細り寝ていましたので、お店は21歳の私ひとりで切り盛りしていました。
 戦時中は食べ物のない時でしたので、私は諫早へ買い出しにも行っていました。諫早駅から一里歩いたところに日赤に勤めていた父の部下の実家があって、そこでほしいものを分けてもらっていました。
 ある日イモを背負って諫早の駅にいると、男の人から「ちょっと来なさい、今日はなんの日か分かっているか?」と質問され、「はい大詔(たいしょう)奉戴(ほうたい)()(毎月8日)です」と答えました。「そんな日に買い出しをしていいのか?」と私は怒られました。でも食べなければ餓死するしかないと思っていると、「いいから行きなさい」と言われて、イモを駅のベンチの下に隠してそのまま帰り、翌朝イモを取りに諫早駅まで行きました。当時は汽車に乗るのも昇降口からではなく窓から乗っていました。先にイモの入った袋を窓から中に入れてあとから私が入りました。席に座っている人の膝の上に乗っていました。悲惨なものでした。
 ある日、母が私と金比(こんぴ)羅山(らさん)の畑でイモを無断で掘ろうとしたこともありましたが、葉っぱだけを抜いて結局イモはとれませんでした。当時を思うと地獄です。思い出すと戦争は嫌だなあと思います。

昭和20年8月9日のこと

 昭和20年8月9日。11時を回ったくらいの時間に、母と2人で家にあるものを何か食べてお茶を飲んでいました。そうしたらピカッと光ったあとドーンと音が来て、「あらっ、近くに50キロ(爆弾)が落ちたとじゃなかろか」と言って、あわてふためきました。とにかく怖いから自分の家の防空壕に裸足で飛び込みました。自分が先に入って「お母さん早よ来んね!」と母を呼びました。何しろ自分(の命)が先ですから貴重品も何も持たずに母と防空壕に入りました。
 当時18歳の弟(士郎)が三菱の養成学校の事務系の仕事をしていて、その日は徹夜残業で朝帰りでした。2階に寝ていたのですが、階段が飛んでなくなっていましたので、「姉ちゃんここどげんなったとね、ぼくが下りられん」と弟は言いましたが、私は「なんとかして下りてきなさい」と言うしかありませんでした。
 それから外で近所の子どもと遊んでいた15歳の双子の弟達(弘一と修一)のことが心配になり、2人をさがしに外の通りに出ました。弟のひとりはガラスの破片で頭をけがしていました。「姉ちゃんけがした」と弟が言いましたので、勝山(かつやま)国民学校の救護所へ連れて行こうと思いましたが、家の前に電柱があって、おじさんが空を見ながら気が狂ったみたいに電柱のまわりをぐるぐる回って、「敵機来襲、敵機来襲!」と叫んでいましたので、竹山という酒屋さんの前の防空壕に私と弟3人で飛び込みました。
 そうしたら先に(立山あたりから下ってきた)30~40歳の男の人が中に入っていました。もう怖かったですよ。顔が真っ二つに割れて、真っ青になって、ガタガタ震えて、血がダラダラ流れて、その男の人に目でどうにかしてくれと訴えられましたが、私は怖くて声をかけられませんでした。(その男の人の傷と比べたら)弟の傷なんか問題ではありませんでした。防空壕の外に出て「ここにケガ人がおりますよ!」と誰かを呼ぶ気持ちにもなれませんでした。どうしていいか分からないので、その男の人を放ったまま怖くて弟達といっしょに防空壕を飛び出しました。いまだにあの男の人のことが気になります。
 またよその防空壕に入ると首のない赤ちゃんをおんぶしている若いお母さんがいました。
 勝山国民学校の救護所には戸板に乗せられた負傷者がどんどん運ばれていました。弟の傷なんか問題ではないと思い、救護所に入るのをあきらめて、母のいる家に戻りました。そこで「これからどうしたらいいか」と母に相談しました。

デートを約束したボーイフレンドとの突然の別れ

 実はその日(9日)、少し付き合っていた矢の平町のボーイフレンドと新大工(しんだいく)(まち)へ映画を観に行く約束をしていました。私は彼の家で助けてもらえないかなと思い、母と弟達を連れて、矢の平町の彼の家に行きました。その家ではお父さんが三菱の製鋼所に勤務している息子(彼)をさがしに行っているということでした。
 そうこうしているうちにお父さんがお骨を箱に入れて持って帰ってきました。工場ではたくさんの工員が亡くなられたそうで、誰の骨か分からないものを「これが我が息子かな」と思い、持ち帰ったそうです。妹さんが私を見て、「兄ちゃんは今日はね一張羅ば着て行ったとよ」と狂うように言いました。そう言われても私にはどうしようもありませんでした。彼が私と映画を観に行くのを楽しみにして一張羅を着て行ったのかと思い、言葉がありませんでした。その箱のお骨に手を合わせる余裕もありませんでした。
 それからもうここは私達がいる場所ではないと思い、私達5人は矢の平町から炉粕町の家へ戻りました。
 家に戻ると、近所の十八銀行の重役さんの家のお嬢さんが子どもをおんぶして、「家人が家に入れてくれない、どうしたらいいか」と相談にみえました。でも私も病気の母をかかえて他人の世話までできないと思い、「そうね、そうね」と話を聞くだけでした。その人のこともどうなったのかいまだに気になります。

本河内から日見トンネル方面へ避難

 それから「婦女子は避難しなさい」と司令部(現在の日本銀行長崎支店)から回覧が回ってきました。母は「自分は覚悟しているからお前だけ避難しなさい」と言いましたが、病人と弟達をおいて逃げられません。近所の無人の家から乳母車を勝手に借りて、母を乗せて当座の食料としてお米などを脇に入れて、私と弟3人で押して、あてもないのに本河内(ほんごうち)方面へ歩いて逃げました。みんなぞろぞろ避難していました。すると()()トンネルの向こうから日本の兵隊がトラックで「デマに迷わされるなー。引き返せー!」と叫んでやってきました。今思えばちょっと映画のワンシーンのようでした。ですが、「とにかく逃げんば」とみんな目は虚ろでした。
 途中で乳母車が壊れてしまい、日見トンネルの出口から母に「歩かんばお母さんしょんなかね」と言いました。母は「歩くけん、がんばるけん」と応えました。しばらく歩いているとだんだん人が少なくなっていきました。
 ここらで今晩一晩野宿しなければいけないと思っていると、左側に一軒の門構えの立派な家があったので、「すみませんけどおたくの軒先を一晩貸してくださいませんか」と私はお願いしました。そこがいい方で入口の四畳半くらいの部屋にふとんを敷いてもらって、蚊帳も吊ってもらって、おにぎりまで出してくださいました。一晩その家に泊まりましたが、いまだにお礼に行っていません。弟の士郎がおにぎりを食べてから「姉ちゃん目の見えん」と言うので、(頭はいいが少しずる賢かったので)また何か悪戯を企んでいるのかと思いましたが、あとでよく考えればかわいそうに栄養失調で鳥目になっていたのでした。その夜はおにぎりひとつでみんな満腹になりました。

原爆投下の翌日

 翌日10日は諫早方面へ歩きました。途中「敵機来襲」と空襲警報が鳴って、「みんな畑のふちに伏せろー」と言われたので、伏せていると、誰か機銃掃射で負傷したのか担架で運ばれていました。諫早まで行って、そこから先はもう行くあてもないから「やっぱり我が家へ帰ろう」と諫早駅で切符を買って炉粕町の家に戻りました。あらためて我が家を見たら二階の階段は裏に飛び出て壊れていました。
 家に帰ると近所のおじいちゃんやおばあちゃんから「行かんほうがよかったとじゃなかと。逃げ回らんほうがよかったとよ」と言われました。というのは、近所の司令部から支援物資がどんどん回って来ていたからだそうです。
 それから、両親の実家は大分県だったのでそこに避難しようと、汽車の切符を買うために市役所で証明書をもらおうとしましたが、混乱していてその段階ではありませんでした。それで行き先がなくなってそのまま家にいました。炉粕町の家を修理して戦後もそこに住んでいました。

戦後のこと

 終戦後、母は原爆投下の翌年に亡くなりました(享年53)。弟の士郎は事務の仕事に就きましたが33歳で亡くなりました。双子の弟達は(なみ)平町(ひらまち)で船大工の仕事をしました。今も存命です。
 私は隣組のお世話で22歳のときにフィリピンから引き揚げてきた男の人と結婚しました。英語が達者で利口な人でした。その人は葬儀社に勤めていて、「葬儀社なんかに行く人と結婚したくなか」と言いましたら、結婚するときは県の通訳になっていました。結婚後も炉粕町の家に住みましたが、結婚から約1年後に夫はメチルアルコールを飲んで結局それが原因で亡くなりました。
 それから私は参議院議員の家でタイプライターの仕事をしました。その家ではかわいがってもらいました。その後、近所の人の紹介で再婚しました。35歳くらいの頃に(女の子を連れて)採用試験を受けて合格し学校給食の調理師になりました。そこで定年まで50年働きました。

若い世代へ残したいメッセージ

 とにかく平和ですよね。戦争だけは嫌です。もう嫌です。戦争はだめ。原爆で世界中がだめになりますよ。孫の婿が大学の工学博士なので、核ミサイルが飛んできたときには、跳ね返って発射した自分の国で爆発するような、壁みたいなものを発明しないかと思っているくらいです。

〈2019(令和1)年9月9日 長崎市下西山町のご自宅にて収録〉

作者:相田幸造さん 所蔵:長崎原爆資料館

今でも忘れられない
母との別れと悲惨な体験

【証言者】赤波(あかば)() 政子(まさこ)さん(94歳)

赤波江(旧姓:丸尾(まるお))政子さんは長崎市大山町在住の94歳。20歳のときに勤務先の三菱重工長崎造船所の幸町(さいわいまち)工場給与課の事務所で被爆し、机の下に転がり込んで九死に一生を得た。松山町の実家では母の丸尾ミサさんが亡くなった。父の丸尾伊勢(いせ)(まつ)さんは大波止(おおはと)に仕事の用事で行っていて無事だった。父と2人で三ツ山町の墓地に母の骨を埋葬した。今でも当時の悲惨な体験は忘れられないという。

 私は大正13年11月26日に爆心地となった長崎市松山町118番地(現在の家具の大川龍さんのところ)で生まれました。旧姓は丸尾です。父の丸尾伊勢松は材木屋を営んでいました。母のミサと3人家族でした。
 昭和20年、私は20歳で、三菱重工長崎造船所幸町工場の給与課の事務所に勤務していました。仕事の内容は工員さんの給与計算でした。当時は庶務、計算、作業と係が分かれていました。私は作業係で勤務記録を確認し計算係にまわす仕事でした。何人かと一緒に工場に行って、順番に並んでいる工員さんに給与袋を渡す仕事もしていました。

原爆が投下された日の朝

昭和20年8月9日の朝、母は父の髪をバリカンで坊主(丸刈り)に刈りました。母に「仕事が忙しかけん、早く行かんね」と言われて、私は10時頃に家を出ました。あとで考えたらそれが母とのお別れでした。いつもは電車で行くのにその日に限ってどういうわけか(実家の前の家に住む同僚の)黒川さんと一緒に幸町の事務所に歩いて向かいました。事務所の建物は大きな木造の二階建てでした。

被爆の瞬間

 私達が幸町の事務所に着いて、さあ今から仕事をするぞというところで、上司の西村さんが二階から降りて来て、打ち合わせをしようとしたら、その瞬間ドカーンと来ました。光や爆風は感じませんでしたが、ガチャーンという大きな音はしました。そのとき私はくるっとひっくり返って運良く机の下に転がり込みました。黒川さんも机の下でした。西村さんもひっくり返りました。まわりの人はみんなガラス片が身体に刺さっていました。黒川さんも背中にガラス片が刺さって負傷し、いっぺんに取ることができず、その後何年もかかって取り除きました。私はおかげさまで無傷でしたが、頭を打ったのか、しばらくは相手の名前が出てこないとか健忘症のような症状が続きました。
 机の下で私は祈りました。「マリア様、私を助けてください。私はどうして死ぬんでしょう。私が死んだら母が悲しむんです」と思わずつぶやきました。もう恐ろしかったですよ。恐ろしいということも通り越していました。
 庶務の係長は瓦礫に挟まり腕を切らないと瓦礫から出ることができない状態でした。ノコギリで腕を切って外に出しましたが、出血多量で亡くなりました。ショックでした。優しい係長でした。

建物の外へ避難

 机の下でどうしようかどうしようかと思っていると、男の人達が「外に出ろよー、火がついとるぞー」と叫びました。西村さんが「僕の足につかまって出らんね。僕が今から出るけん。足ば離さんとよ」と言って、私は一生懸命西村さんの足を握って、モンペを引っかけボロボロになりながら、しばらく時間がかかって外に出ました。もう自分が這い出るので精一杯でした。
 外に出てみると真っ赤に血だらけになった女の人が木の上に座っていて、おどろきました。それから事務所の前の聖徳寺(しょうとくじ)の下の防空壕に黒川さんと西村さんとしばらく入っていました。その防空壕は20人くらい入れる広さがありました。中には大きな外国人の捕虜などもいました。
 西村さんはそれから他の従業員の救助に向かいました。防空壕には工員さん達が出たり入ったりしていました。
 10分くらい経って、私は防空壕から小用のため外の橋のところへ行きました。三菱の病院など周辺の建物はべちゃっと潰れてボンボン燃えていました。救助に向かう男の人達はワイシャツを破って口に当てていました。私の事務所も潰れていました。
 ある男の人が「ほらあんた、燃えよるとこば走って向こうまで行かんね。そうすれば向こうは燃えよらんとよ」と言いましたが、そんなことをすれば頭も身体も焦げてしまうので、冗談じゃなかと思い、「私は嫌よ」と言いました。私は気が立っていました。それでまた防空壕に戻りました。
 しばらく防空壕に入っているとパンパンパンパンと小銃の音がしました。空を見ると低空を偵察機が飛んでいました。何度か旋回しながら防空壕目がけて撃ってきました。憎たらしいし恐ろしかったですよ。
 そのときの街のようすは「これが生き地獄よ」という感じでした。防空壕の前は死体が山のようにあって、死んでいる赤ちゃんにお乳を飲ませている女性もいました。(いな)佐山(さやま)から兵隊さんが下りて来て、いろいろ処理作業をしていました。

報国隊の女子生徒の髪が抜ける

 いっときして長崎駅のほうから報国隊の女子生徒が私達のところへ3、4人歩いて来て、「水を飲ませてください」と言いました。湧き出ている水を「飲まんね、飲まんね」と言って飲ませましたが、ひょっと見ると、彼女達の髪の毛が抜けて坊主になっていました。元気にしているのに髪だけが抜けていました。私は「あら、あんたたち髪が抜けよるよ」と言いました。彼女たちは「あら、ほんと」と言っていましたが、かわいそうでした。
 諏訪神社の防空壕へ私はお弁当を(事務所に置いたまま出て)持ちませんでしたが、黒川さんがお弁当を持って外に出ていたので、一緒に食べさせてもらいました。
 しばらく経って、知り合いが「ここにいたら危なかけん、諏訪(すわ)神社のほうに行こう」というので、黒川さんと一緒に諏訪神社へ行きました。諏訪神社の石垣の下に小さな防空壕があって、ここまでは燃えてこないだろうと思い、そこで私達は一晩を過ごしました。

翌日の10日のこと

 8月10日未明から、松山町の自分の家のことが心配で気が気ではありませんでした。それで黒川さんと浦上へ歩いて帰ることにしました。燃えているところを避けながら歩いて行きました。お昼頃だったか、反対側からぞろぞろ歩いて来る知人と会って、「あら丸尾さん、あんたがたもだめやったばい」と言われ、「あらーそうね」と返事しました。
 急いで松山の家まで行ってみたら、母が白骨になっていました。私はお骨の前でおいおい泣きました。黒川さんも自分の家を向いておいおい泣いていました。黒川さんのお母さんはミシンの下に倒れていて白骨になっていたそうです。横浜から疎開して当時三ツ山町に住んでいたおば達は親子3人で私の家の玄関のところで亡くなっていました。昨日のように覚えています。もう悲しかったです。恥も外聞もなく私は泣きました。
 父は前日大波止の青木材木屋に用事があって行っていたので、助かりました。
 私の家には炊事場のところに大きな五右衛門風呂があり、水をいっぱい貯めていましたが、セメントと煉瓦でしっかり固めていたのがひっくり返って大きな穴が空いていました。それを見て「この辺が爆心地だ」と思いました。家は材木屋で、配給所だったので、材木がたくさん置いてあり、原爆が落ちてから何日も燃え続けていました。
 浦上天主堂も壊れていました。ショックでした。まわりは何もありませんでした。自分の家も焼けて、母も白骨になって……。周囲では真っ黒焦げの遺体を重ねてまとめて順番にどんどん焼いていました。
 それから三ツ山町の母方のおじのところへ身を寄せました。あとから父も三ツ山町に来ました。
 10日の夜になって会社の同僚の玉川さんという男性が自転車に乗って私をたずねて来ました。私は「よくたずねて来たね、よくここが分かったね」と言いました。父が「今夜はここに泊まらんね」と言って、玉川さんも一緒に泊まりました。翌朝5時頃に玉川さんは自転車で山道を下って帰りましたが、そのとき「気をつけて帰ってよー」と私は声をかけました。玉川さんは家に帰ってすぐに倒れて亡くなったそうです。

 その後、母のお骨を父と2人で箱に入れて松山町から三ツ山町へ運びました。そして三ツ山の奥のお墓に行き穴を掘って埋めました。生前の母は厳しかったですね。三ツ山町出身で熱心なカトリック信者でした。

終戦後の出来事

 原爆が落ちて10日も経たないうちに、アメリカの進駐軍が上陸して、岡町のところへトラック何台かに乗ってやって来たことがありました。松山町で配給品をもらって袋に入れて歩いていた私と黒川さんを、「ヒー、ヒャー」と叫びながら兵士がからかうので、恐ろしくて殺されると思って逃げようと、溝に頭を突っ込んで隠れようとしましたが、溝の中には瓦がたくさん埋まっていて、隠れられませんでした。周囲には誰もおらず、どこに逃げようもありませんでした。あんな恐ろしいことは今も忘れられません。
 終戦後、勤務していた幸町工場の事務所が閉鎖されるというので受付が設けられ、私は藁草履を履いて三ツ山町からそこまで歩いて行きました。私が「退職金はなかと?」と担当の男性2名に言うと「なか」と返事がありました。そのとき西村さんが亡くなったことを聞きました。西村さんのところへ助け出していただいたお礼に行かなければと思っていましたので、私はショックで腰が抜けるようでした。西村さんは被爆当日従業員を何人も助け出してくれました。
 戦後、三ツ山町のおじの家に私は父と2年住みました。父は材木屋をやめました。その頃は食料がなくてじゃがいもばかりを食べていました。私は松山町へ配給の食料を取りに行って、トロクスン(白いんげん豆)やさばの缶詰などをもらって、また歩いて三ツ山町まで戻ってみんなに食べさせていました。
 被爆して2年後に私達は松山町に新しい家を建てました。

戦後に発症した「原爆病」の苦難

 戦後、私は結婚して小倉(こくら)(福岡)に住みましたが、一時は線香のようにガリガリに痩せて、肝臓を患いました。かかった病院では「原爆病ですね」と言われました。その頃はデパートの階段も疲れていっぺんには上がれない状態でした。踊り場で休み休み上がりました。原爆病と聞いて夫は青くなって「これだけ子どもが4人おるとに、お前に死なれたらどうすうか」と言いました。病院の先生からも「そんな身体でもう(子どもは)産みなさんなよ」と言われました。
 小倉では原爆(被爆者健康)手帳を見せると嫌な顔をされることもありました。家主の奥さんが「赤波江さん、あんた原爆に遭うた人ば嫁さんにもろうてどげんするとね、死なれたら子どもも4人おるとに」と夫に向かって言ったこともありました。そのとき私は「へたるもんか」と思いました。「4人の子どもば育てていかんば」と思いました。痩せてはいましたが気は強かったのです。

若い世代へ残したいメッセージ

 やっぱり戦争はするもんじゃないですね。小倉に住んでいた頃は毎年8月9日になると、原爆記念日(原爆の日)は思い出したくないので、ニュースなど見たくも聞きたくもありませんでした。今は平和ですけど、そのときの状況は悲惨でしたから。
 私が入っていた防空壕では事務所の荒木さんという男の人が避難していた外国人捕虜に煙草をやったりして親切にしていました。終戦後、その外国人が訪ねて来て、「荒木さん、荒木さん」と言って、親切にしてもらったことが忘れられないとのことでした。そんなこともありました。平和で仲良くするのが一番です。

 余談ですが、私の家は両親とも代々カトリックでした。被爆医師の故永井隆博士とも親交がありました。よく絵や色紙などを書いてもらいました。とても優しい先生だったですね。

〈2019(令和1)年9月30日 長崎市大山町の自宅にて収録〉

「銭座国民学校付近上空から三菱長崎造船所幸町工場方面を望む」
撮影:米軍 所蔵:長崎原爆資料館

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